やさしい言葉
前回のブログでもご紹介しました、Kさんからお借りしたエッセイ集『やさしい言葉』。その最後のエッセイが、書名にもなっている「やさしい言葉」です。とてもいい話ですので、少し長くなりますが引用させていただきます。
(以下引用)『入院中に、あるエピソードを読みました。ある少年の手記に、こう書かれていたというお話です。少年とは少年院を卒業する人だったのですが、彼は不遇な生い立ちによって、残念ながら「やさしい言葉」に出会うことができなかったと、述べました。そのことで悩み、そして自分を見つめたのです。やがて、すばらしい結論に至ったのでした。それは、「自分から優しい言葉をかけてゆく者になろう。そうすれば、やさしい言葉に出会えるじゃないか」ということでした。
やさしい言葉とは何か。答えがひとつに決まっているわけではありませんが、要するに、相手が言ってもらいたいと思う言葉を言ってあげることなのでしょう。「大変だったねー」とか、「だいじょうぶかい」とか、なにげなく言ったありふれた言葉なのに、「その一言がうれしい!」と相手が思うとき、それは「やさしい言葉」となるはずです。相手の存在をありのままに認めて、寄り添ってゆく言葉、それなのでしょう。(中略)やさしい言葉というのは、言われた人もそうでしょうが、言った人もうれしいと感じるところが、不思議であります。(中略)身近かなところにやさしい言葉をたくさん満たしてゆくことで、少しは世界の見え方が異なってくるに違いない、と思っています。』(以上引用)
悲しいとき、困ったとき、苦しいとき、つまらないとき、どうしようもないとき、人は心のなかで、やさしい言葉をかけてほしいと待ち望んでいるのです。自分にやさしくしてくれる人はいないだろうか、共感してくれる人はいないだろうか、私の気持ちを分かってくれる人はいないだろうか、と考えています。私にもそんな状況のときがありました。
そんなとき、自分から周りの人に対して「私にやさしくしてね」なんてお願いすることはできないのです。周りの世界は自分とは関係なく、すごいスピードでどんどん動いているように見えます。みんな成功していて、とても幸せそうに見えるのです。そう見える世界では、弱っている人は周りにお願いすることなんて、とてもできないのです。
だからこそ、元気なもの、強いものがやさしい言葉をかけてあげる。それが世の中の窪みを埋めるような気がいたします。人生には山もあれば谷もある。自分にもやがていろいろな波が来るはず。自分だったらどう思うのだろう、と想像しながら、やさしい言葉をかけてあげたいと思います。
一つだけ注意したいことは、その人を助けてあげたい、その人のお役に立ちたいという気持ち以外の邪念を入れないことです。例えば、何かの失敗により叱られて落ち込んでいる人がいたとしたら、その人にやさしい言葉をかけて、次につながるアドバイスをしてあげることはとてもよいことです。
ところが、いくらその人が喜ぶからといって、叱った人の悪口を言って慰めたり、誰がやっても失敗だったと責任転嫁したり、友達だからいくら失敗を繰り返してもいいんだよ、と言ったりするのは、大きな間違いであるということです。そういう話をされると、その瞬間はとても安心され、喜ばれるでしょうが、問題をそらしただけですから、本来の問題解決につながっていないのです。またそう言ってしまった人自身も、その瞬間を盛り上げるためにある意味で嘘を言っているわけですから、すっきり出来るはずはありません。そのような傷をなめあっている仲間は、いつまでも続くことはなく、遅からず自滅するグループと言えます。
本当にその人のことを思って、やさしい言葉をかける。出来るサポートをすぐにしてあげる。それだけでいいのです。
参考文献
『やさしい言葉』草野榮應(沙羅の集:百観音明治寺内)この本は明治寺にて購入出来るようです。
(以下引用)『入院中に、あるエピソードを読みました。ある少年の手記に、こう書かれていたというお話です。少年とは少年院を卒業する人だったのですが、彼は不遇な生い立ちによって、残念ながら「やさしい言葉」に出会うことができなかったと、述べました。そのことで悩み、そして自分を見つめたのです。やがて、すばらしい結論に至ったのでした。それは、「自分から優しい言葉をかけてゆく者になろう。そうすれば、やさしい言葉に出会えるじゃないか」ということでした。
やさしい言葉とは何か。答えがひとつに決まっているわけではありませんが、要するに、相手が言ってもらいたいと思う言葉を言ってあげることなのでしょう。「大変だったねー」とか、「だいじょうぶかい」とか、なにげなく言ったありふれた言葉なのに、「その一言がうれしい!」と相手が思うとき、それは「やさしい言葉」となるはずです。相手の存在をありのままに認めて、寄り添ってゆく言葉、それなのでしょう。(中略)やさしい言葉というのは、言われた人もそうでしょうが、言った人もうれしいと感じるところが、不思議であります。(中略)身近かなところにやさしい言葉をたくさん満たしてゆくことで、少しは世界の見え方が異なってくるに違いない、と思っています。』(以上引用)
悲しいとき、困ったとき、苦しいとき、つまらないとき、どうしようもないとき、人は心のなかで、やさしい言葉をかけてほしいと待ち望んでいるのです。自分にやさしくしてくれる人はいないだろうか、共感してくれる人はいないだろうか、私の気持ちを分かってくれる人はいないだろうか、と考えています。私にもそんな状況のときがありました。
そんなとき、自分から周りの人に対して「私にやさしくしてね」なんてお願いすることはできないのです。周りの世界は自分とは関係なく、すごいスピードでどんどん動いているように見えます。みんな成功していて、とても幸せそうに見えるのです。そう見える世界では、弱っている人は周りにお願いすることなんて、とてもできないのです。
だからこそ、元気なもの、強いものがやさしい言葉をかけてあげる。それが世の中の窪みを埋めるような気がいたします。人生には山もあれば谷もある。自分にもやがていろいろな波が来るはず。自分だったらどう思うのだろう、と想像しながら、やさしい言葉をかけてあげたいと思います。
一つだけ注意したいことは、その人を助けてあげたい、その人のお役に立ちたいという気持ち以外の邪念を入れないことです。例えば、何かの失敗により叱られて落ち込んでいる人がいたとしたら、その人にやさしい言葉をかけて、次につながるアドバイスをしてあげることはとてもよいことです。
ところが、いくらその人が喜ぶからといって、叱った人の悪口を言って慰めたり、誰がやっても失敗だったと責任転嫁したり、友達だからいくら失敗を繰り返してもいいんだよ、と言ったりするのは、大きな間違いであるということです。そういう話をされると、その瞬間はとても安心され、喜ばれるでしょうが、問題をそらしただけですから、本来の問題解決につながっていないのです。またそう言ってしまった人自身も、その瞬間を盛り上げるためにある意味で嘘を言っているわけですから、すっきり出来るはずはありません。そのような傷をなめあっている仲間は、いつまでも続くことはなく、遅からず自滅するグループと言えます。
本当にその人のことを思って、やさしい言葉をかける。出来るサポートをすぐにしてあげる。それだけでいいのです。
参考文献
『やさしい言葉』草野榮應(沙羅の集:百観音明治寺内)この本は明治寺にて購入出来るようです。




